基礎理論ー東洋医学の起源②
前回は東洋医学と西洋医学の発展の違いについて書きましたが、今回はもう少し東洋医学の起源について書いていこうと思います。
最初は痛いところをさすったり、温めたりする本能的な手当てから医術は始まりました。
殷の時代(紀元前1600年頃~紀元前1046年)の甲骨文字によると、部族社会が形成されるにつれてシャーマンなどの呪術師による呪術的な医療が行われるようになったことが記されています。
鍼灸は、殷・周時代にはすでに鍼治療が広く行われていた記述が残っているそうです。
周を経て、春秋戦国時代(紀元前770年~紀元前221年)になっても、祭祀、祈祷、祝詞などによって病気を取り除こうとする療法が盛んに行われていました。
この春秋戦国時代という混乱の時代を背景に多くの学者が誕生し、儒教や道教などの思想が深まっていきます。
春秋戦国時代に現れた学者・学派を総称して、諸子百家(しょしひゃっか)と言われています。
「諸子」は孔子、老子、荘子、墨子、孟子、荀子などの人物を指し、「百家」は儒家、道家、墨家、名家、法家などの学派を指します。
孔子が唱えた儒家は『論語』として、今の時代にも伝えられていますね。
秩序ある社会を回復するためには、力による政治を排して、道徳と礼儀による政治を復興することであると唱えました。
老子が唱えた道家は、孔子に対して反論していることが多く、道徳や礼儀といった人為的な価値判断こそが、混乱の原因であるとして、自然に逆らわず万物の根源である「道」を求めています。
「道」を万物の根源とし、この道が後に気の思想にも繋がり、東洋医学の考え方とかなり近いものがあります。
戦国時代(BC403~)の『孟子』には灸の記載があり、『馬王堆医書』には経脈の記載があります。
前漢(BC202~DC8)陰陽五行の思想が生まれます。金鍼、銀鍼が出土しています。
後漢(25~200)中国最古の医学書と言われている『黄帝内経』が編纂されます。
鍼灸が日本に渡ってきたのは、奈良時代(710年~784年)です。
中国の僧侶が仏典とともに鍼灸の医学書を持ってきたと言われています。
平安から室町時代にかけて、書物を通してだけでなく、人的交流も盛んに行われて、鍼灸や漢方といった中国医学が日本社会に定着していきます。
江戸時代(1603年~)に入ると、鎖国によって大陸との国交も途絶えたことにより、日本独特の伝統医学として独自の進化を遂げていきます。
灸が、庶民の間に広まっていくのも、この時代です。
安土桃山時代から江戸時代初期の鍼医であった御薗意斎(みそのいさい)が考案した『打鍼法』や、江戸時代中期以降、杉山和一(すぎやまわいち)が考案した管鍼法は、日本独特のものです。
杉田玄白の『解体新書』の登場により、鍼灸や漢方の立場が変わり始めます。
そして、明治政府の西洋化政策によって、鍼灸や漢方などを主流とする日本の伝統的な医学は、表舞台から追いやられてしまうこととなります。
昭和に入ると、伝統医学の見直し運動や、太平洋戦争の敗戦により、西洋医学の台頭に、鍼灸は民間医療としての地位に甘んじることとなります。
そして、ある時期までは視覚障がい者の業種とされてきました。
1972年、米国のニクソン大統領が中国を訪問した際に、同行したニューヨークタイムズの記者が虫垂炎にかかり、それを鍼麻酔で手術したことが報道され、世界中に爆発的に広まったとされています。実際は手術後における違和感や疼痛の改善であったそうです。
鍼灸は民間での支持が強く、はり師、きゅう師は国家資格として制定されることになりました。
これにより鍼灸の教育制度はさらに充実し、教育を基盤に鍼灸も新しい時代へ突入します。
各国の伝統医療が見直されている昨今、鍼灸は最も優れた伝統医療として、世界各国の医療関係者が、そのメカニズムと研究成果を発表しています。
また、小児はりは日本独特のもので、世界中の小児医療に関わる医師や看護師が勉強会に参加するなど、注目を集めている分野でもあります。
このように長い歴史を積み重ねてきた鍼灸、東洋医学は、ただの民間療法ではなく、きちんと医学として発展してきた長い歴史があるのです。
現代医学では説明できないからと言って否定してしまうにはあまりにも浅はか、と思ってしまうのは、私だけではないと思います。
次回は東洋医学の基本中の基本、気の思想について書いていきましょう。
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